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「は」と「が」の違い

四年ほど前の話で恐縮ですが、仕事で中国に短期の出張をした時のことです。
その際ちょっとした思索の散歩をして、少々興味深い場所に辿り着いたので、
そのことを書き留めておこうと思います。

出張初日、西安の空港に着いた私と同僚は、出迎えに来てくれた現地中国社員の方
の車に乗り込み早速仕事先のオフィスに向かいました。これから四日間、この中国
社員の方がいろいろとフォローしてくれていることになっていました。彼の流暢な
日本語を称えながら、私は中国人にとって日本語を学ぶことは難しいのか易しいの
かを問うてみました。実は私は、日本語は世界の言語の中でも習得の敷居が低い言
語なのではないかという持論があったのです。
(注)日本語のマスターが容易いと考える理由は2つあって、その1つは表音文字であるひらがなやカタカナを持っていること。もう1つは母音が5つしかなく、更に各母音の発音はヒアリングしやすいということです。この2つの特徴から、まずはマトリックス状の五十音をマスターしてしまえば、少なくとも日本の小学校低学年の知識吸収レベルの準備が整ってしまいます。しかも表意文字である漢字の方は中国から輸入したのですから、中国人にとってはなおのこと日本語は学習しやすい言語なのではないかと思っていたのです。
しかし、彼の答えは意外にも「日本語は難しい」でした。
その理由を聞くと、特に「は」と「が」の使い分けが難しい、と答えたのです。確
かに中国語には助詞がありません。言語学上存在しない概念からマスターしなけれ
ばならないのですから、それは確かに難しいことでしょう。

更に彼は続けました。
私が通っていた大学の日本語の教授は、「は」と「が」の用法に関しての原則を整理しました。でも、その原則は20個以上もあるのです。とても会話しながら活用できません。

20もあったらもはや原則ではないだろう、とでも言いたげに彼は苦笑いしていま
した。私も一緒に苦笑いしながら、しかしふと振り返って、では日本人である私は
彼に「は」と「が」の違いを簡潔明瞭に説明できるのだろうか、と自問していまし
た。 ・・・即答できません(苦笑)。

私はこのテーマが頭から離れなくなってしまいました。そして日本人として、できれ
ば帰国までに、この中国社員にわかりやすく解説したいと思うようになりました。


初日
その日の仕事を終えホテルに帰った私は、早速思索の散歩を始めました。 今どきのホテルは各部屋でネット接続できますから、ネット検索すればその答えは すぐに見つかるでしょう。でもそれをするには、この思索テーマはあまりにも興味 深く、何も考えずに既存の答えを覗いてしまうのは実に勿体無い気がしました。 それではまるで推理小説を買ってきて、すぐに最後のページを読むようなものです。 という訳で、私は自らの足で散歩することにしたのです。 まず考えたのは、以下の2つの文です。
・ 私は、加藤です。
・ 私が、加藤です。
この微妙なニュアンスの違いは一体何なのでしょう?

何度も心の中で読み上げたのですが、確かに何かが違う、ということしかわかりま
せん。仮説を立ててある性質で区別しても、他の例文に当てはめるとすぐに破綻し
てしまいました。つまり、汎用力のある原則がなかなか確立できないのです。これ
では20の原則を笑えない(苦笑)。・・・ちょっと行き詰りました。

そこで視点を変え、違和感のある用法から考察してみることにしました。
・ 君は、誰だ?
・ 誰が、加藤だ?
これはまったく違和感はありません。
しかし、
・ 君が、誰だ?
・ 誰は、加藤だ?
これは違和感ありまくりです。

他にも違和感のある例を挙げようとしたのですが、思い付いたのはどれも疑問文ば
かりでした。しかし、いくら変形しても違和感を感じさせない疑問文もあります。

例えば、
・ これは、パソコンですか?
・ これが、パソコンですか?
・ パソコンは、これですか?
・ パソコンが、これですか?
これらは日本人ならばどれも、この問いを発するに相応しいシチュエーションをイ
メージできます。つまり、間違えた用法ではない訳です。しかし、確かにニュアン
スは微妙に違う。にもかかわらず、母国語のこれらのニュアンスを綺麗に説明する
ことができない。なんともどかしい事でしょうか。


二日目
次の日の夜も考え続けたのですが、やはり違和感を感じる文例の多い疑問文からの アプローチが問題解決の糸口になりそうな気配がします。そこで、疑問文に返答文 も添えて考えてみることにしました。
(問い)君は、誰だ?    → (答え)私は、加藤です。
(問い)誰が、加藤だ?  → (答え)私が、加藤です。
この2つはまったく違和感がありません。

でも、
(問い)君は、誰だ?    → (答え)私が、加藤です。
(問い)誰が、加藤だ?  → (答え)私は、加藤です。
この2つは、どことなく違和感があるのです。

「こいつは俺の質問の意図がわかっていないかもしれない」という感じです(苦笑)。
ところが驚くべきことに、この違和感のあるやり取りも、質問文と返答文を分離し
て取り出すと、各文はどれも日本語として間違っていません。

ということは「は」と「が」の違いは、静的な側面でのみ考察しても答えを見いだ
せず、もっと動的な何かをはらんでいるということになります。多分このダイナミ
ック性が、この思索テーマを難解なものにしており、スタティックな表現で原則化
しようとすると、いくつもの例外が発生したり、難解な言葉で説明せざるを得ない
状況にしてしまうのかもしれません。

私は、かなり核心に近づいた予感がしました。
そこで「は」と「が」を含む代表的な疑問文として、「君は誰だ」と「誰が加藤だ」
をピックアップし、その疑問文が使われるシチュエーションを考えてみることにし
ました。

 ●「君は誰だ?」と問う時は、手中に名前の候補が存在していて、
   その中のどれなのかを聞いているのです。

 ●「誰が加藤だ?」と問う時は、目の前に多くの人がいて、
   その中の誰が加藤なのかを聞いているのです。


この2つのイメージを思い浮かべながらそれぞれの疑問文と返答文をじっくりと眺
めていると、ある対称性が見えてきました。この2つの疑問文には、共に「誰」と
いう疑問詞が含まれていますが、一方は主語側に使われており、もう一方は述語側
に使われています。「誰」という言葉には、取りうる可能性のある候補がいっぱい
詰まっています。そんな模糊とした部分が、片や主語側に、片や述語側に寄ってい
るのです。そしてその疑問文に対し、その模糊とした部分を一気に収斂させるかの
ように、返答文が対応しています。

この事実に気づいた瞬間、目の前に閃光が走りました。
多分、βエンドロフィンが私の脳内に充満したことでしょう。

私の得た仮説は、
 「は」と「が」の違いは、
    対象が、「主語と述語のどちらで確定したか」にある。
でした。

「可能性のある選択肢の中から1つに確定する瞬間」の動的ニュアンスを、日本語
は、「は」と「が」という1字の助詞に担わせているのです。私の頭の中には、美
しい対称性を持つこの仮説を説明するための、補足やイメージ図がどんどん湧き上
がりました。

 「私は加藤です」
     ・・・鈴木でも、山田でもありません、加藤なんです!

    

 「私が加藤です」
     ・・・あの人でも、この人でもありません、私なんです!

    

これは、なかなか筋が良さそうです。原則の内容がかなり明確になってきたので、
名称を与えてあげることにしました。私が付けた名は「主述確定の原則」です。

【 主述確定の原則 】

   対象の確定が、
     → 述語側で起こった場合は、「」を使用する。
     → 主語側で起こった場合は、「」を使用する。


三日目
一つの有力な仮説を得た私は、更にこの原則を強靭なものにするため、裏付け作業 に入りました。様々な例を頭に描いては、原則から逸脱するものがないかどうかチ ェックしていったのです。この作業はパソコンなんて不要だし、紙や鉛筆さえも要 りません。私がチェックしている姿はさしずめ瞑想者のような感じだったかもしれ ません(笑)。 そして、この仮説を裏付けるもっとも良い検証例が、これまた日本語の特徴である 「省略」にあることに気づいたのです。第二の閃きでした。 「は」を用いるときは、確定が「述語側」で起こっています。 つまり述語側に答えの真意が込められており、述語側を強調したいのです。 ですから、主語を省略して述語だけを答えることができます。
(問い)君は、誰だ? → (答え)私は、加藤です。
               → (主語を省略した答え)加藤です。

反対に「が」を用いるときは、確定が「主語側」で起こっています。
つまり主語側に答えの真意が込められており、主語側を強調したいのです。
ですから、述語を省略して主語だけを答えることができます。
(問い)誰が、加藤だ? → (答え)私が、加藤です。
                → (述語を省略した答え)私です。

これらの例は、省略してもまったく違和感を感じません。
「主述確定の原則」にしっかりと従っているからです。

では、同様の省略を「違和感のあった問答」に対して実施してみましょう。
「が」を使った答えは述語が、「は」を使った答えは主語が省略されます。
(問い)君は、誰だ? → (答え)私が、加藤です。
               → (述語を省略)私です。
(問い)誰が、加藤だ? → (答え)私は、加藤です。
                → (主語を省略)加藤です。
ほら、この回答、とっても間抜けでしょう?(笑)

「こいつは俺の質問の意図がわかっていないかもしれない」という印象は、ここ
に理由があったのです。ただし実際の日常会話の中では、返答に伴って立ち上がっ
たり、挙手したり、にこやかに微笑んだりするので、たとえ用法が誤っていても許
容されてしまう場合が多々あるのだと思います。コミュニケーションにおいては言
語よりもこうした挙動による情報量の方が多いと聞いたことがあります。もしかし
たら質問した側も回答者の用法の誤りに気付かないまま素通りしているのかもしれ
ませんね。
(注)「誰が加藤だ?」と問われて「私です」と答えるのは素直ですが、「加藤です」と答える場合も日常生活ではごくたまにあるように思えます。その場合は、すくと立ち上がるといった挙動を伴うことが多いと思います。しかし、この例は「主述確定原則」の反例ではありません。この例は、「誰が加藤だ?」という問いに対する回答「私が加藤です」の全体が省略された後に、「誰?」という先程の問いとはまったく別の意味で、「加藤」という名前を強調したい場合のシチュエーションだと分析しています。印象としては「加藤」という名前を復唱しているイメージですね。
次に、受け答えがなくとも違和感のある以下の2つの疑問文を検証してみましょう。
(問1)君が、誰だ?
(問2)誰は、加藤だ?
「誰」というのは、まさに選択肢の対象そのものです。
(問1)の疑問文では「が」を使っていながら、選択肢(誰)が述語側にきています。
(問2)の疑問文では「は」を使っていながら、選択肢(誰)が主語側にきています。
これは明らかに「主述確定の原則」に反しており、よって大きな違和感を感じた訳
です。

では、違和感を感じなかった以下の4つの疑問文はどうでしょうか?
(問A)これは、パソコンですか?
(問B)これが、パソコンですか?
(問C)パソコンは、これですか?
(問D)パソコンが、これですか?
「誰」とか「どれ」ではなく「これ」が用いられているので、主述どちらでも選択
肢の存在を仮定でき、結果として4文とも違和感を感じないのだと思います。以下、
詳細に紐解いてみましょう。

(問A)これは、パソコンですか?
	→パソコンじゃなくて、電卓かと思いましたよ。と続くシチュエーション。
	 すなわち述語の方に選択肢があるため原則に合致し違和感なし。

(問B)これが、パソコンですか?
	→数々の機器を眺めた後パソコンに到達し、これこそがパソコンかぁ~と感動している。
	 主語の方に選択肢があり、共に原則に合致し違和感なし。

(問C)パソコンは、これですか?
	→これじゃなくて、あれかと思いましたよ。と別の機器を指さすシチュエーション。
	 述語の方に選択肢があり、原則に合致し違和感なし。

(問D)パソコンが、これですか?
	→こりゃパソコンなんて代物じゃなくて、ソロバンに毛の生えたようなもんですよ!
	 と叫ぶシチュエーション。すなわち主語の方に選択肢があるため原則に合致し違和感なし。

このように「主述確定の原則」の検証は、今のところ順調です。

更に「主述確定の原則」の適用能力が高いかどうか、もっと別の視点でも検証して
みました。述語が名詞ではなく形容詞でも大丈夫そうです。
この犬が白い。
→ あの犬でも、その犬でもなく、この犬が白いんだ。

この猫は黒い。
→ 赤でも、茶でも、白でもなく、この猫は黒だ。

こんな例も考えてみました。
私は人間です。
→ 私は、犬や猫ではありません。人間です。
  と主張しているシーンです。

私が人間です。
→ この表現はSF小説なら登場するかもしれません。
  遥か未来の宇宙時代。いろんな異星人の中から、
  人間(地球人)が名乗りを上げる時の台詞ですね。


・・・如何でしょうか。
これだけの検証に耐えるのですから、この仮説は本物である可能性が大であると思
います。どうやら私は、「は」と「が」の違いを説明するためのたった1つの原則
に辿り着いた模様です。むろん、先人が見つけたもっとエレガントな原則が他に存
在するかもしれません。でも、

  他のどれでもなく、これこそ“”私の答えです。(笑)

最後に、「主述確定の原則」が、「は」と「が」の違いを如何に簡潔明瞭に説明し
てしまうか、極限まで簡素な文を象徴的なイメージ図で示し、今回の散歩を締めく
くりたいと思います。

	


最終日
私は、最終日の前夜にホテルでこの原則を説明するためのプレゼン資料を作成しま した。そして、最終日に15分だけ時間をもらって、中国の方々に説明しました。 聴講者の半数ぐらいは理解してくれたと思います。そして、理解してくれた方々に 共通して言えることは、既に日本語が上手な人たちでした(苦笑)。でも皆さん感動 してくれて、別のメンバーにも説明したいからこの説明資料を提供して欲しい、と 言ってくれました。私は喜んで差し出しました。 博学の言語学者からすれば「主述確定の原則」は、穴だらけで幼稚なロジックかも しれませんし、いつものように既知の事実かもしれません。がしかし、散策路の片 隅に咲く小さくとも美しい花に自力で到達できた時の喜びは、誰にもかき消すこと はできません。その時私は、βエンドロフィンのシャワーを確かに浴びたのです。 今回の思索を通じて、私は日本語の偉大さを再認するとともに、ますます日本語が 好きになりました。考えてみると日本語は五七五のたった17文字で、情感の機微 や無限の世界を表現してしまう「俳句」という文化を持っています。「は」と「が」 のたった1字の助詞に含まれる情緒的な豊かさは、俳句を生み出した日本人の心や 文化の表れの1つなのかもしれません。あるいは逆に、日本人が助詞1字の微妙な 違いを共通して感じるからこそ、俳句という文化の形成が可能だったのかもしれま せん。 どちらにしても、今回の「は」と「が」が象徴している様に、少ない言葉に多くの 情感を込めるセンスは、私たち日本人すべてが持ち合わせている一種の美感なので しょう。帰国の飛行機の窓から次第に近づいてくる小さな日本列島を眺めながら、 私はそんなことを考えていました。
後日談
ここから先は4年前の思索ではなく、このページを作成しながら気づいたことです。 もし「主述確定の原則」が数学のような論理性を持っているのであれば、主語と述 語を入れ換えても、それと併せて主語と述語を結びつける助詞「が」「は」も入れ 換えてしまえば原則は維持されるはずです。数学のメタファーを使うと、さしずめ 「対偶は真偽を継承する」といった所でしょうか。 この「主語と述語を入れ換えて、併せて助詞も置換する」という操作を、 ここでは仮に「反転」と呼ぶことにします。 疑問文「誰が加藤だ?」の返答文に、この反転操作を実際に施してみると
(問い)誰が加藤だ? → (答え)私が加藤です
              → (反転)加藤は私です
となり、確かに問題はなさそうです。
反転前の文も反転後の文も、疑問文「誰が加藤だ?」の返答として成立しています。

ところが、以下の反転は何とも違和感のある文になってしまいました。
(問い)君は誰だ? → (答え)私は加藤です
            → (反転)加藤が私です
「君は誰だ?」と問われて、「加藤が私だ」と答えたら、
日本人であることを疑われてしまいます。(笑)

「私」と「加藤」を、「が」あるいは「は」で接続する組合せは、上記に挙げた4
つの返答文しかないのですが、その内の「加藤が私です」だけが異常なほどに違和
感を感じさせます。そもそも返答文以前に、単独の文としてもおかしいのです。
これは、何故でしょうか?

問題解決の糸口を求めて試行錯誤を繰り返していると、以下のシチュエーションで
違和感が解消することを発見しました。今、目の前に複数の人がいて、その各人に
紐付いたカード(免許書やクレジットなど)も置いてあるとしましょう。その紐付け
関係を問うシチュエーションです。例えば3名の前にABCのカードがある場合、
(問い)君はどれだ? → (答え)私はAです
             → (反転)Aが私です
反転しても問題ないですね。
対象が、加藤という「人」から、Aという「カード」に変わったからでしょうか?
それとも疑問文が「誰だ?」から「どれだ?」に変わったからでしょうか?

1つ仮説を立ててみました。
「が」という助詞を持つ主語は、
  ・有限の選択肢つまり既知(どれ:Which)からの確定のみ許され
  ・無限の選択肢つまり未知(誰:Who)からの確定は許されない

残念ながら、すぐに反例が見つかりました。
(問い)やったのは誰だ? → (答え)やったのは加藤です
               → (反転)加藤がやりました
上記は、無限の選択肢である「誰?」を問うた文ですが、その回答文は反転させて
も違和感がなく、ちゃんと同じ内容を表現しています。しかも、対象も「カード」
ではなく「人」です。

いよいよ行き詰ってきました。
たったこれだけの綻びで「主述確定の原則」は崩壊してしまうのでしょうか?
自虐的に今の自分の状況を表現する文を作ってみました。

  彼は、時折とても思いつめた顔をする。

  (解説)いろいろな表情の中から“思いつめた顔”を選び確定しています。
     述語側の確定ですから「は」の使用で原則に合致しています。

さらに、半ば自暴自棄に「が」に変えてみました。

  彼が、時折とても思いつめた顔をする。

これは、思いっきり違和感を感じます。(苦笑)
「主述確定の原則」によれば、「が」は主語側の確定を表している事になります。
つまりこの文は、多くの人の中から思いつめた顔をする“彼”を選んでいる訳です
が、“彼”すなわち“人”を選んでいるにもかかわらず、最後が “人” で結ばれ
ていないために違和感を感じるのだと思います。以下の様にすれば自然でしょう。

  彼が、時折とても思いつめた顔をする人です。

と、ここに至った瞬間、第三のβエンドロフィンが降り注ぎました!
鍵は「省略」にあり、問題となっている「加藤が私です」という文には、大切な語
句が省略されていたのです。

  加藤が私です。
      ↓
  加藤が私の名前です。

つまり、「君は誰だ?」という問いに対して、“名前”という属性を使って自己紹
介をした場合の精緻な回答は「加藤が私の名前です」な訳です。にもかかわらず属
性の種類を表す「名前」という語句を省略してしまったため、何を主張しているの
か判然としない不可解な文になってしまった。

しかるに先程のカードの例「Aが私です」では、その状況から「カード」が論点に
なっていることは自明であり、わざわざ「Aが私のカードです」と言わなくとも、
すなわち「のカード」の省略が起こっても違和感が無かったのです。

この様に「省略」をしても違和感を感じる場合と感じない場合があります。そして
省略すると違和感が生じる文は、決して「が」だけではなく「は」にも結構存在し
ている事が判りました。すなわち、この省略特性は「は」と「が」の違いを表して
いる訳ではないのです。

以下の表で示す例の内、背景色が付いた例文で(括弧)を省略してみて下さい。
なんとも舌足らずで違和感のある文に変質してしまうことがお分かり頂けると思います。
妙に威圧的になってしまうもの、下手をすると別の意味になってしまうものさえあります。

「は」「が」

(Ⅳの反転)

(Ⅲの反転)

(Ⅱの反転)

(Ⅰの反転)
(の名前)は、加藤だ加藤は、私(の名前) (の名前)が、加藤だ加藤が、私(の名前)
(の職業)は、医者だ医者は、私(の職業) (の職業)が、医者だ医者が、私(の職業)
(の縄張)は、ここだここは、私(の縄張) (の縄張)が、ここだここが、私(の縄張)
(の信念)は、それだそれは、私(の信念) (の信念)が、それだそれが、私(の信念)
(の女房)は、彼女だ彼女は、私(の女房) (の女房)が、彼女だ彼女が、私(の女房)
(の性格)は、最低だ最低は、私(の性格) (の性格)が、最低だ最低が、私(の性格)
この表を見て皆さんは、 「何故ここに背景色が付いているのだろう?」あるいは、 「何故ここに背景色が付いていないのだろう?」と思う部分がありませんでしたか? そうです。 実は省略して違和感があるか否かは、その場のシチュエーションや前後の文脈、話し相手 でも変わってくるのです。私が私自身の感性で塗った背景色(違和感を感じる文)が、皆さ んのイメージと食い違っているとしたら、それは私の生活空間や生き様が、皆さんと微妙 に異なっている事の証でしょう。これは余談ですが、この表の背景色パターンは、個々人 の生き様やものの捉え方を測定するツールになるかもしれませんね。 日本語は「は」と「が」のたった1字に、ダイナミックな確定や強調のニュアンスを込め ることができますが、なんと省略に至っては、無音0文字です。日本人は常にその場の機 微を敏感に感じ取り、「言わなくても判るだろう」という文化を築き上げてきたと言えま す。そして、誰もが共通して省略を許す構文や、誰もが共通して省略を許さない構文とは、 まさに日本人としての日常生活における状況の出現頻度が生み出したコモンセンスなのか もしれません。 ここまで来ると日本語は、世界の言語の中でも最高レベルで習得が難しい言語であると認 めざるを得ません。なにせ母国民の生き様が、習得の大前提になっているのですから。

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