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鼻をつままれたおばさん もうかなり昔のことになりますが、NHKの「YOU」という番組で「数学」をテーマ にした若者向けの軽いフリートークショーをやっていました。その中で、非常に興味深 いパラドックスを提示してくれた若者がいたのです。彼は見るからに貧乏学生の風体で したが、そのテーマも“節約から生れた論理”とでも言うべきものでした。 彼の近所に、ティッシュペーパーの箱のフタの部分を10枚集めると、新しいティッシ ュの箱と引き替えてくれる店があると説明した後、9枚のフタを手にして、これで新品 の箱が1つ手にはいるのだと豪語するのです。彼は、その論理を現場で証明しようと、 その店へ出かけて行きます。 店には、こと数学とは縁のなさそうなレジのおばさんがいます。彼はそのおばさんに9 枚のフタを見せながら新しいティッシュの箱と交換してくれと迫りました。当然の事な がら、おばさんは数学は知らなくとも算術は心得ていて、そのフタが9枚しかないこと に素早く気づき、若者の交換してくれと言う申し出を拒否するのです。あたりまえです よね。ここから若者とおばさんの滑稽なやり取りが始ります。 若者   「でもね、おばさん。このフタ10枚で1箱と同じ価値があるんでしょ?    なら、フタ1枚は、10分の1箱、つまり0.1箱の価値があるんですよね?」 おばさん   「ええ・・・。」   (おばさんは、既に理解できていないようである) 若者   「しかし、その0.1箱のティッシュには、0.1枚分のフタが付いているはずでしょ?」 おばさん   「まぁ・・・。」   (おばさんは、理解への努力を完全に放棄している様子である。) 若者   「という事は、このフタは0.1箱に付いている0.1枚分のフタの価値も    含んでいる事になるでしょ?    という事は、その0.1枚のフタは10分の1の10分の1    すなわち0.01箱分の価値を持っている。そうでしょ?」 おばさん   「・・・」   (おばさんは、早く若者の説明が終わればいい、とその事だけを考えている) 若者   「つまり、1枚のフタは0.1箱プラス0.01箱の価値、    すなわち0.11箱の価値を持っているんですよ。」 おばさん   「そう。」   (そうと言ったのは、単なるあいづちでしかないが、    若者は自分の論理に酔っていてそれに気づかない) 若者   「ところが! 0.01箱は、0.001枚のフタを含んでいるから、    同様にして1枚のフタは、0.111箱の価値を持っていることになるのです。    これを繰り返せば、1枚のフタは、0.11111・・・と、0.1の循環小数分の    ティッシュの箱の価値に等しい訳です。」 おばさん   「ええ・・・。」   (おばさんの視線は既に若者には向いていない) 若者   「つまり、9枚のフタは0.99999・・・と、0.9の循環小数に等しい箱の価値を    持っているというわけです。どうです。凄いでしょ!?」 おばさん   「そうね。」   (若者の確認に、おばさんはうなずいた。    しかし、若者が何を言おうと、おばさんにはおばさんの強い信念があった。) 若者   「数学では、0.9の循環小数は1に等しい。    だから9枚のフタは1箱の価値に等しいんです。    この9枚のフタとティッシュ1箱とを交換して下さい。」 おばさん   「だめよ。10枚なきゃ。」   (これが、おばさんの信念だった) 私はこの若者の主張がよくわかったし、一見数学的矛盾はないようにも思えました。 しかし、常識的に考えて若者の主張は明らかにおかしい気がします。どこがどうおかし いのか数学的に突詰めなければならないと思いました。けれどもその検証に入る前に、 私はもっとドラマチックな解決法を思い付いてしまいました。 それは、こういうシーンです。

若者とおばさんが店のレジで議論(それは一方的なものであるが)している所へ、ある 知恵者がやってくる。さて、その知恵者は何をしたか? 彼は、若者とおばさんの前で、 新しいティッシュの箱を手にし、そのフタを開けてしまう。そして、若者にそのふたの 開いたティッシュを渡し、その代わりに9枚のフタを若者から取り上げ、今開けたフタ と合わせて10枚のフタをおばさんに渡すのである! 唖然とする二人をよそに、知恵者は軽く会釈してその場から立ち去る。

私は、この知恵者の解決法を思い付いたとたんに、その若者の主張を検証する気が無く
なっていました。知恵者は、完全にこのパラドックスを円満に解決したと思われたから
です。つまり、若者の主張にも誤りはないし、おばさんの常識も覆されていないと思わ
れたのです。

しかし、数日後、私はこの若者の主張が知恵者の解決法とはまったく別のことを言って
いることに気づきました。若者の論理は9枚のフタを“フタも付いた”新品のティッシ
ュと交換する事が可能なのです! という事は、フタ9枚は、9分の1の箱の価値を持
つことになります。その箱には、9分の1枚のフタが付いていて、そのフタは1/9×
1/9箱の価値を持っていて・・・。

とまあ、同様の論旨を更に進めることで、今度は8枚のフタで1箱と交換できると主張
することが可能なことに気づきました。しかも1枚のフタが1/10箱の価値を持って
いる場合よりも速く収束をしそうです。

そうなると、この論理を繰り返すことで最終的には1枚のフタと1箱とを交換可能にす
る状態にまで持ち込むことができ、若者は一生鼻をかみつづけることができるでしょう。
ここまで極端だと、もうパラドックスではありません。私は早速、若者の論理の検証に
入ることにしました。



まず、フタをとおき、フタのついた新品の箱をと置く。
更に、フタをはがした開封後の箱をとすると、は次のように表現できる。

  B=P+F                              (1)

ここで、10枚のフタが新品の箱と交換可能、すなわち価値が等しいということは、

  F+F+F+F+F+F+F+F+F+F=B
                  10F=B              (2)

と表現できる。
したがって、(2)に(1)に代入してBを消去すると、

  10F=P+F
   9F=P

つまり、9枚のフタで開封後の1箱と交換できるという知恵者の論理が証明された
ことになる。
では、若者の論理を同様に数式を使って展開してみよう。
まず、1枚のフタの価値は、0.1箱となる。(2)より、

  F=B/10                             (3)

ここで若者は、0.1箱には0.1枚のフタが付いていると主張する。
(1)を上式へ代入し、

  F=P/10+F/10                        (4)

この段階までは、何ら矛盾は無い。しかし、若者は次の段階で巧みに、あるいは
無意識ににすり替えてしまっている!

  F=P/10+F/10
    ↓
  F=B/10+F/10                        (5)

(4)から(5)へのすり替えの後、0.1枚のフタは0.01箱に等しいとして、
(5)へ(3)を代入する。

  F=B/10+B/100

更に、(1)を代入して、

  F=B/10+P/100+F/100

ここで、再びPをBにすり替えて、

  F=B/10+P/100+F/100
         ↓
  F=B/10+B/100+F/100                 (6)

とした後、(3)を代入する。

  F=B/10+B/100+B/1000

以上のような、無限のすり替えを含む無限の作業により、

  F=B/10+B/100+B/1000+B/10000+‥‥‥
   =B(1/10+1/100+1/1000+1/10000+‥‥‥)
   =B×0.11111‥‥‥                     (7)

として、(7)を9倍し、

  9F=B×0.99999‥‥‥
    =B

この様にして、若者は9枚のフタが新品のティッシュ1箱に等しいと結論付けた。
しかし、この論理は無限のB→Pのすり替えで支えられている。→(5)や(6)の部分。
ここに、若者の論理は完全に誤っていることが示されたわけである。



しかるに、何故我々はこんなに派手な数学的誤魔化しに気づかないのでしょうか?
そのポイントを明確にするために、今一度ゆっくりと論理検証してみます。

 <1> 1枚のフタは、0.1箱と同値        → OK
 <2> 0.1箱には、0.1枚のフタが付いている  → OK
 <3> 0.1枚のフタは、0.01箱に同値     → OK
 <4> 1枚のフタは、0.1箱プラス0.01箱の価値で0.11箱  → NG!

一体、どこがおかしいのか?
試しに<4>をF,B,Pの関係で正しく表現してみると、

  1枚のF=「0.1箱のP」+「0.01箱のBの価値」

この表現は、すり替えを行う前の(4)に、(3)を代入した、

  F=P/10+B/100                       (8)

に等しくなります。
つまり、<2>から<3>に移る時、<2>の0.1箱からは0.1枚のフタがはがされる。
すなわち、0.1Bが0.1Pに変化するのです。その瞬間を、我々は見逃していたと
いうわけです。<3>の論理ステップが、前ステップの<2>に影響を与える。この動的なス
テップと「箱」という曖昧な定義語が、若者の論理をパラドックスにさせていたのです。



最後に、(8)に正当な数学的展開を施してみましょう。
(1)を代入し、

  F=P/10+P/100+F/100

更に、(3)を代入して、

  F=P/10+P/100+B/1000

以上の代入を繰り返すことで、

  F=P/10+P/100+P/1000+‥‥‥‥+B/∞       (9)

ここで、最終項のB/∞はゼロに収束するので、結局(9)は、

  F=P(0.1+0.01+0.001+‥‥‥‥)
   =P×0.11111‥‥‥‥

となり、これを9倍することで

  9F=P×0.99999‥‥‥‥
    =P

すなわち、9枚のフタで、フタのはがされた箱1つと交換できるという知恵者の論理が、
ここに至っても証明されたことになります。常識的な直感と、数学の正確な論理が一致
する結果は、まるでフィナーレで和音が解決するかのようですね。

                                  (おしまい)

(注)この文章は、私が昔に書いた覚書きを元に校正しなおしました。   その覚書きには、1986.10.9 という日付が入っていました。 本ページ公開後、掲示板にてPT2Kさんから循環小数のウィットある 証明を紹介して頂きました。あまりに見事なので掲載させていただきます。 また、FRANZさんからは“超準解析”というキーワードを、 へべれけさんからは“除算の余り”から「無限小」の実存的とらえ方を頂きました。 掲示板から転載させていただくことお許し下さい。

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